東京青年会議所 歴史を振り返る(50年の歴史)

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拡充期 --- 第九話 ---

創立35周年記念式典で挨拶する小坂理事長(84年9月)
昭和59年度(1984年1月1日〜1984年12月31日)小坂俊幸理事長
昭和60年度(1985年1月1日〜1985年12月31日)服部仁基理事長
昭和61年度(1986年1月1日〜1986年12月31日)山本泰人理事長
昭和62年度(1987年1月1日〜1987年12月31日)渡辺佳英理事長
昭和63年度(1988年1月1日〜1988年12月31日)和田光司理事長
平成元年度(1989年1月1日〜1989年12月31日)阿部芳三理事長
東京JC創立35周年

 昭和五十九年(小坂俊幸理事長)は、東京青年会議所の大きな転換期を予想させて明けた。東京青年会議所創立三十五周年、地区委員会が誕生して十年目というひとつの節目であった。小坂理事長はそれを理事長所信の中で次のように主張している。
  「東京青年会議所運動もいよいよ三十五年目になり、ひとつの節目を迎えます。青年会議所運動の基本である世界との友情、個人の修練、社会への奉仕という三信条、綱領、宣言は変わりませんが、その運営方法、運動の方向性、実践活動の方法は時代の変化に合わせて質的に変化しているはずです。したがって社会の変化との関係で東京青年会議所の運動はどうあるべきかを基本から見直し、再確認してみたいと思います。
  第一に簡素で効率的な組織運営を目指します。簡素で効率的といっても必ずしも委員会数の削減を意味するものではありません。費用と効果を重視する物の考え方であり、有意義な事業が効果的に行われるように、事業を中心に組織を考えていくことです。環境変化に応じて、社会と会員のニーズは変化します。簡素で効率的ということは、このようなニーズに合った素晴らしい事業が効率的に行われるように、組織を目的に沿って機能別に分類し、組織を弾力的に運営していくことです。
  第二に、心の通った組織運営を心掛けます。組織運営というと、どうしても非人間的な感じがします。しかしながら、組織は決して官僚的なもの、非人間的なものではありません。組織は人間が作ったものであり、人間が運営しているものです。もし、組織から強制的なもの、非人間的なものを感じるとしたら、それは運営方法の誤りなのです。私は、かねてから心の通った組織運営を考えております。個々の事業活動も、厳しく、合理的に目的を追求するという面は否定しませんが、その構造の別の側面として、また忙しい活動の中に必ず心が通っていなければならないのです。私は、この心の通った運営というテーマを少数意見の尊重と決定への参加という、民主主義の原点を探る一連の活動を通して実現していきたいと思います」と。
日中友好少年少女の翼では
胡耀邦総書記と会見(84年3月)
  三十五年の歴史をふまえ、新しい年に向かって踏み出すためには新しい組織運営に挑戦することが必要であった。
  東京青年会議所創立三十五周年記念事業、日中友好少年少女の翼訪中代表団(小坂俊幸団長)は、三月二十四日、北京に入り、現地各界各層の人々と交流、大きな成果をあげた。
  "翼"のハイライト、胡耀邦中国共産党中央総書記と代表団との会見は、二十五日に行われた。
  小坂団長から揮毫を頼まれた胡総書記は「中日青年永遠友好」と大書した。
 "小さな遣唐使達"は、各地で書道や小運動会、文化・スポーツ交流、意見交換など多彩なプログラムを消化し民間親善大使ぶりを発揮した。
  東京青年会議所は敗戦後の混乱と焼土の中から自発的な青年運動として生まれ、この三十五年間多くの有意義な事業を行い、大きな評価を得てきた。とくに地区を中心とした地域活動はめざましい成果をあげ、地域社会への影響力を一段と高めている。
  その反面、価値観の多様化で事業数も増大し、財政のひっ迫、メンバー負担の増加という問題も発生してきている。また東京青年会議所を取り巻く環境も大きく変化している。
  こうした状況を乗り越えて今後も東京青年会議所は、曲折を経ながらも、来るべき新しい世紀に向かって日本の青年層の先頭に立ち、個性を豊かにして、社会の活力を高めるとともに、魅力ある日本人として世界に受け入れられることを目指し、限りなき前進と飛躍を重ねていくであろう。

人類の限りない平和と繁栄を

小坂俊幸
第35代理事長
服部仁基
第36代理事長
山本泰人
第37代理事長
渡辺佳英
第38代理事長
和田光司
第40代理事長
阿部芳三
第41代理事長
  昭和六十年(服部仁基理事長)、この年から現役メンバーは戦後の世代で後世され、「明るい二十一世紀をめざして切り拓こう青年の時代を」をスローガンに掲げてスタートした。
  国際間における真のパートナーシップへの評価は、民間人による相互理解と親善、交流を通じて生み出されるのであり、そのため、この年も積極的に民間外交を推進し、国際社会における連帯と協調の実を挙げた。
  前年に引き続き第二回日中友好「少年少女の翼」訪中代表団を北京、武漢、上海に派遣し、次代を担う子どもたちの心に残る日中友好交流は、二十一世紀に向けて実り多い成果を生み出すこととなった。
  ロサンゼルスで開催された汎太平洋地域会議は、この年十一回目を迎え、太平洋時代の幕開けにふさわしい、希望と確信に満ちた論議が展開され、新しいパートナーを加えた交流は、汎太平洋地域会議の意義を更に高めたものである。
  二十一世紀に向けて、活力と潤いのある地域社会を実現することは、国民の願望であり、そのためには地域における運動を進めるに当たって、何よりも自立自助と参加の精神を重視し、そのなかで地区委員会が取り組んだ地域シンポジウムは、地域の独自性と開発、および展望に大きな関心を集め、地域に根づいた運動として評価された。また、地区委員会発足十一年を期して実施した区長訪問では、あらためて東京青年会議所の地域における役割の重大さを再認識させられる結果となった。
  行政改革、北方領土返還要求運動など、広範囲にわたる地道な取り組みが、地域社会の活性化に、どのようなインパクトを与えてきたのか、考させられた時代である。
  創造力豊かな青少年の育成は、我が国が活力に満ちた国として発展していくための必須条件であるとして、この年第九回「わんぱく相撲」東京場所と併催で新国技館落成記念全国大会が開催された。全国より四十LOM 、六十六チーム四百七十二名の参加を得て成功裡に運営された。この事は、今後の「わんぱく相撲」の在り方に、ひとつの方向性を示唆されたものであろう。
筑波の国際科学技術博覧会で行われた
インターナショナル・ユース・フェスティバル'85
(85年4月)
  また、教育問題の現状を的確にとらえた夫人例会をはじめ、各地域における教育シンポジウムの積極的な展開は、あらためて青少年教育の重大性を認識させ関心を呼び起こした。
  「人類の限りない平和と繁栄を実現するために、二十一世紀を担う青年としての責任と役割を今日ほど問われている時代はありません」とうたい挙げ、この時代の要請に答えるため東京青年会議所は組織を挙げて「国際青年年」(I Y Y )の記念事業に取り組んだ。四月七日、筑波の科学万博大催事場で「インターナショナル・ユース・フェスティバル'85」を開催し、参加した世界各国の青年によって「青年の責任と役割」が追求され、未来へ希望を託し、勇気と確信をもって人類の限りない平和と繁栄を希求する道を歩み続けることを約した。

地域ビジョン・都市ビジョンの展開

 昭和六十一年、この年の山本泰人理事長は、「戦後四十年を経て、高度成長期に育まれたあらゆる価値観が音をたてて変貌するのに直面し、二十一世紀へ向けての東京J C の新たなるあり方を模索した一年であった」と顧みている。
  組織は1,500名を超え肥大化し、価値観が多様化して混沌とする中で、東京J C の方向性が明確でなく、全メンバーに共有されていないという問題意識があった。そこで新時代に対応した東京J C の新指針を策定することとした。この中では、二十一世紀を予見した都市政策を重要課題として指摘し、小さな政府における市民主導型社会を築くために、国際的視点を持った地域ビジョンをつくり、ひいては都市政策ビジョンの創出こそ、今後のJC 運動の中枢であると提案した。さらに、J C メンバーのコンセプトとしては企業家精神、自立自助の市民意識、国際性であるとした。
  また、年間のテーマとして、「二十一世紀東京未来像の構築」に重点を置き、政策、事業、地区運営室が連動して、「流れよどみ調査」を実施し、民間をも巻き込んだ都市問題シンポジウムで、開かれ、流れ潤う街づくりこそ、今後の活力ある東京の姿であると提言した。
  この動きは、十月の第十二回汎太平洋地域会議や、十一月の名古屋で開催された第四十一回J C I 世界会議分科会等、国際的視点からも取り上げられ、地区委員会の地域シンポジウムが充実した内容で開催されたことと相俟って、あらゆる角度から、二十一世紀の東京を取り上げた形となった。
  国際的な課題としては、税制改革や、初めて1,000人を越える参加を得たJ C デーの例会で教育オアシス論を取り上げたほか、青少年育成事業として、第二回わんぱく相撲全国大会を開催した。
  さらに、国際的には、国際平和年でもあり、従来の米国、中国の他に、韓国、ソ連、イタリア等諸外国との交流をはかったのもこの年の特色である。
  一方、組織運営面では、安定成長下における簡素効率化の観点から、機能別組織の導入、事業審査の権限委譲やO A 化の推進、また、研修制度の改善なども積極的に進め、役員選任に係わる諸規則一部改正も実施した。

4ブロック例会開催される

マイポート東京ウォークラリー
(87年5月)
  昭和六十二年、この年渡辺佳英理事長)は、円高に明け暮れした一年間であった。二月例会が地区運営八室のブロックに分かれて行われ、地域の活性化町づくりビジョン策定のスタートとし、地域に根ざした運動展開のエポックとして開催された。この成果は九月の都市シンポジウムにつなげることを大きな目標とされた。
  三月、第一回青年経営者訪中団一行四十名が中国各地を訪問した。中国青年企業管理者協会のメンバーを対象に、中国の若手経営者と企業管理を中心とした論議を行い、相互の理解を深め、中国の経済政策向上の一助になることを念願して行われたもので、北京で行われた経営セミナーでは特に大きな反響を呼んだ。
  五月には「マイポート東京」の事業の一つとして、ウォークラリーが開催された。
  快晴に恵まれた五月十六日の午後、およそ三百組、1,000名の都民老若男女が参加、晴海埠頭からお台場海浜公園まで約八キロを「見よう、触れよう、そして考えよう」を目標に歩いたものである。
  都市問題のシリーズとして、六月、東京の交通問題を考える例会「都市交通シンポジウム」が開催された。まさに、東京の交通問題は難問題として慢性化し、解決の糸口を見つけるきっかけを作ることこそ重要であり、今後もこの問題を意識して都市の再開発を提言すべきであろう。
  皇太子・同妃両殿下をお迎えした世界的チェリスト・ロストロポーヴィッチによるチャリティー事業、八月の第三回わんぱく相撲全国大会と事業をこなし、九月には二年目、第二弾の都市シンポジウムが開催され、「人間性のある都市を目指そう」と内部提言が発表された。
  混迷の時代、いくつかの乗り越えなければならないハードルを意識しながら何とか乗り切ることができたと、渡辺理事長は述べている。

国際都市東京の実現に向けて

 昭和六十三年(和田光司理事長)は、国際社会では新大統領の誕生という一つの大きな時代の変化があった。そして国内の政局は、税制改革を中心に大きなうねりの胎動があり、また経済面では相変わらずわが国の突出した経済力ゆえに、国際協調の輪の外にある状態であった。このような国際情勢の中で、日本はアジアで、そして世界で、政治的にも経済的にもますますその存在価値を問われるようになった。
  このような時代背景の中、「進めようさわやかな変革」をスローガンに掲げ、一つには、国際都市東京の実現に向けて、都市、国家、国際の各分野にわたる、よりレベルの高い政策や提言に取り組んだ。
  また、東京二十三特別区が民主的自治の確立を目指した制度改革を踏まえ、より地域の視点に立脚したビジョンの構築を進めた。さらに、地域のニーズに立脚した諸事業の展開に当たり、社団法人としての公益性を尊重した運動の推進に努め、これらの運動を通じて青年会議所にふさわしい政策を提言した。1,700名を超える会員を擁するに至り、地区の組織を大きく四ブロックに編成し、それぞれに思い切った権限の委譲を図り、効率的な運動を推進した。
  1991年に日本青年会議所が創立四〇周年を迎えるに当たり、全国大会の開催を東京J C で主管したいという意向が強まり、全国会員大会誘致立候補が第八十回定時総会で全会一致で決定された。
  九月には第三回都市シンポジウムが開催され、1,200名の出席者を得て、六分科会にわかれ、巨大都市東京の抱える様々な問題点が討議された。全体会議ではパリと東京を結んで衛星フォーラムが行われ、国際都市としての共通の悩みや課題が熱心に語り合われた。
  九月二十八日から十月一日まで高知市で全国大会が開催され、新宣言文が採択された。それまでの宣言文は昭和四十五年に決議され、その翌年に宣言文として採択され、昭和六十三年まで使われてきたものである。新宣言文は、新しい時代に、J C 運動が生まれ変わることを期待されて採択されたのである。

東京JC創立40周年

40周年記念事業は「国際、東京、人間」の3テーマで外国人ゲストを交え討論
  平成元年(阿部芳三理事長)、創立四十周年の年を迎え、「四十年という時代の流れは、東京青年会議所の活動に対する内部的な評価、外部的な要請にも大きく影響を与えている。定款の内容も昨今の現実の活動にはそぐわない点が多々みられるものになっており、ここ数年、改正は急務であるとの見解は総務委員会を中心に多くのメンバーが認めるところとなっている」という要請から、定款諸規則の抜本的な見直しが行われ、六月の臨時総会において改正が承認された。このことは、より外に向けた活動に期待が寄せられている結果でもあり、ここ数年の、二十一世紀を意識して活動をしてきた成果でもある。
  四十周年記念事業を九月に控え、「生まれ変わる東京J C ]を合言葉に、開かれた組織を目指して活発な活動を展開した。



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