Story Of JC Life 第1回


東京青年会議所のOBには多くの方々がいらっしゃいます。先輩の皆さんはどのようなJCライフを過ごしてきたのか?
どのような事を行ってきたのか?語って頂く、「私のJC活動履歴書」です。
第一回目は「週刊TVガイド」等を発行している(株)東京ニュース通信社代表取締役会長の奥山忠先輩です。

奥山 忠 先輩
東京青年会議所 第25代理事長

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理事長となり、大きく推進できた運動は、日中問題一つだけでした。何故なら山崎理事長から担当するように言われた時、「日米問題ならやってもいいですよ。」と答えた私に、「それならば1月から6月までは日中問題、7月以降は日米問題をやればいいじゃないか。」と返されたのですが、始めてみると日中問題だけで精一杯となってしまったからです。結果、日中問題に特化した活動となりました
対中国側との交渉は、難航に次ぐ難航でした。よく「中国四千年の歴史」と言いますが、中国は何千年も国境を接してきたロシアやベトナム、ネパール、インド等々の外国と交流・貿易を行ってきたわけです。しかし日本は鎖国が終焉してから百五十年。中国側は、交渉術に大変長けているわけで、本当に苦労をしましたし、考え方も日本人とはまるで違う。例えるならば、日本は「村社会」なわけです。契約書等を交わさなくても、約束を破ればその村にいられなくなる。 遠くの村に逃げたとしても、噂が回り、また他の村に移らなくてはいけなくなるのです。それに対し、中国はとにかく広大で、人も多い。約束を守らなくても遠くに行ってしまえばわからない。日本的な村社会のルールが存在しないのです。そういう気質がわからなくて大変でした。 後日、こんな事がありました。日中友好運動を行い5年経ったところで、牛尾治郎さんに「これからの友好運動はどうしたらいいんでしょう。」と尋ねに行ったことがあります。
牛尾さんは 「5年で区切りなさい。これからは友好運動だけではなく、実質的な運動をするべきだ。中国は日本から見るとまだ遅れている部分がある。だから研修生を受け入れるべきだ」と答えてくれました。 前々から中国側からも「中国は歴史こそあるが、まだまだ技術的に遅れている。それに対して日本という国は非常に先進的だ。」と聞かされていたこともあり、研修生の受け入れをすることにしました。何社かが数人ずつ1年間計20人程度を3回ほど受け入れる事となりました。のですが、何社かが数人ずつ1年間受け入れるわけです。私の会社でも受け入れましたがとにかく大変でした。金銭的にも丸抱えなのですから。 受け入れの条件交渉を北京で行いました。日本側は私と中村弘君、向山和雄君の3名、中国側は賈棣鍔(かれいがく)さん1名でした。内容としては「小遣いはいくらくれるのか?食費は?宿舎はどうするのか?」といったものです。こちら側は「小遣いは一日1500円出しましょう。食費も一日あたり1500円出します。宿舎は会社の寮。交通費もこちらで持ちます。」と回答しました。月9万円です。至れり尽くせりです。交渉はまとまり、いよいよ明日、人民大会堂にて中華全国青年連合会の主席胡啓立(こけいりつ)さんと調印式という晩に問題がおきました。(胡啓立氏は将来国家主席に必ずなるだろうといわれた超エリートでしたが、天安門事件の際趙紫陽氏と共に学生側に附き失脚しました。胡錦涛現国家主席は中青連で胡啓立さんの二代後の主席でした。)明日に備えそろそろ寝ようか、という時でした。電話がかかってきて、「今から相談したいことがある。」とのことです。宿舎の北京飯店の部屋で話を聞くと、「やはり食費がたりない。日本は食費が高いので1500円では無理だと思う。それに小遣いも少ない。これでは日本の皆さんと十分なお付き合いが出来ない。」と言い出したのです。金額が足りないと。「もう決まった事じゃないか。明日調印じゃないか。」、と言っても、「調印はできない。」と言うのです。私は、中村君と向山君と共に、この研修生受入の全責任を背負って来ていました。まだどこも中国の研修生の受け入れなど行って無く、東京JCが日本で始めて行うのです。「まとまりませんでした。」なんて言って帰れる状況ではないのです。
議論は夜中の2時、3時まで続きました。でもまとまりません。そんな時ピーンとあることを思い出しました。 香港に時計を買いに行った時のことです。最初10万円と言われた時計が、交渉をすると8万円、7万円とだんだん下がっていきます。それでも断ると、「いくらなら買うんだ。」と言われました。「5万円なら買うよ。」と言うと駄目だと言います。「あっ、そう。じゃさいなら。」と帰ろうとすると、追いかけて来るのです。「じゃあ6万円でどうだ。」と。
そんなことを思い出し、向山君に「俺はもう怒った振りをして席を立つから。寝てしまったことにしておいてくれ。」と耳打ちをしました。 そこでバーンと机を叩き、 「賈棣鍔(かれいがく)さん、私たちは遊びに来ているのでもなければ、商売に来ているのでもない。身銭をきって、中国と友好運動を行おうとして来ているのです。あなた方は政府から給金を貰っているのだろうけど、こちらは民間なんです。研修生の受入も全て持ち出しです。もうこんな議論はしていられません。明日朝一の便で帰ります!」と怒鳴りながら、自分の部屋に帰ってしまいました。 15分後、向山君がやってきて「決まりました。条件は前のままでいいそうです。」とのこと。こちらの作戦勝ちでした。 中国との交渉はこうしなくてはいけないのか、と思ったものでした。 

第7章へ 続く


奥山 忠 (おくやま ただし)
(社)東京青年会議所 第25代理事長
(株)東京ニュース通信社 代表取締役会長

主なJC歴
1968年
入会
1970年
経営開発委員会 幹事
1971年
理事 指導力開発室 プログラムマネージャー
1972年
常任理事 指導力開発室 室長
1973年
副理事長
1974年
理事長